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【〇〇原理主義】「自分の絵柄」って結局何?


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こんばんは、MAMEUSAです。



絵描きの皆さんは、「自分の絵柄」というものを理解しておられるでしょうか?



私も長年絵を描いていますが、「自分の絵柄」というものにずいぶん振り回されました。

自分専用の絵柄というものにこそ価値があると思っていたからです。



絵柄=個性、その個性が自分の価値だという方程式と信じていました。



個性はアイデンティティとも言います。


私は「アイデンティティ」というものが何よりも大事だと思っていました。


世の中における自分の立ち位置、役割そのものを表していると。




個性・アイデンティティを重視する考えというものは、世の中においての自分の役割がハッキリしていないと気が済まないという強迫観念でもありました。


自分の役割が曖昧、または認識できないというのは自己の価値がないと言われているのも同然と考えていました。


「個性を大事に」「個性を伸ばそう」というスローガンはよく見かけますが、それが「個性主義」にまでなると、結果頭を抱えることに。




最近は特に、世の中で個性主義が目立ってきているように思えます。


「人と違う自分を受け入れて伸ばそう」に留まっているうちは良いのですが、何か一つ間違えれば「自分は人と違っていなくてはいけない」に変わります。



皆と同じでは価値がない。違うところに価値を見出す。



価値のある人間であるために、個性で殴り合う時代。



自分の個性って何?と、ふと考えたらもう抜け出せなくなる。

無理やり人とは違うところ・個性を生み出そうと躍起になり、自分の意思とは反した事にさえのめり込んでしまうのです。


「個性主義」に囚われた結果、本来の個性とは真逆の方向へ突き進んでしまう。

本末転倒とはまさにこのことです。



「個性を伸ばす」といえばいかにも「自由」を広げる行為のように聞こえますが、それに囚われることがいかに不自由か。マリベリが尊ぶところの「自由」とは対極のものになってしまいます。




「個性がなくてはだめだ、その個性を伸ばさなくてはだめだ。」


いつの間にか世間も個性原理主義に変わっていってしまったような気がします。



人と違うところを良きとする文化が、「特に何もない、個性の薄い自分」を否定する文化であってはなりません。




「絵柄の個性」にこだわっていた自分は、まさに個性原理主義に囚われていた様に思います。



では個性とはなんでしょうか?



他の人と違うところ、というとわかりやすいでしょう。


ですが、


それはわざわざ作るものではないですよね。




個性は自然発生的に形成されるものだと今は思います。



恋人は作るものじゃなくてできるものとか言いますよね。そういう感じかなと緩く考えています。



周りと違うかなんていうのはいっそ二の次で良い。

「個性」に囚われず、好きなもの、書きたいもの、所謂「魂の声」に忠実に。



魂の声を聞いて行動した結果、後からついて来る貴方だけの宝物。

それが本来の「個性」です。




「個性が欲しい」というのは魂の声のようであってそうではないと思うのです。


個性がなくてはつまらない人間だ、置いてけぼりを食うという焦りの感情に過ぎないのではないでしょうか。



魂が求めるのは、何かに追いかけられて必死で助けを求める感情ではなく、心がワクワクして追いかけたくなる様なものです。



その違いをわかる様になれば、きっと光る個性は後からついて来ます。





最後まで読んでいただきありがとうございます。


汝、自由で在れ✠


MAMEUSA

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